言葉とインターフェースは、どちらも等しく伝染する。

 日本語は、日本語話者の中で正しく意思疎通をするために役立っています。
 ところが、日本語の中にも「地方語(方言)」「世代語」「帰属語(隠語)」等があって、どうしても通じない言葉がでてしまいます。
 人は「同じ言葉、同じインターフェースを使用する人に親しみを持ちやすい」部分が少なからずありますから(もちろん、それが全てではありませんが、「何かあったときに聞ける人がいる」という点では確実に真です)、この点を完全に無視して考えるべきではないでしょうね。


 こういう「伝染する」現象は、PCのインターフェースにも多分に見られます。
 普通は「インターフェースの流用」としてとらえられますが、設計者の思想によって「流用されたインターフェースは、形が同じはずなのに使われ方が異なる」状態になることも比較的頻繁に見られます。
 Macintoshマウスの2ボタン仕様では片方のボタンがControl+クリックですし、windows系でのスクロールマウスのホイールは、Ctrlキーと共に押すとスクロールの意味を離れてズーム扱いになりますし…。
 キー配列は…「親指シフト族」とか「中指シフト族」、あるいは「ローマ字入力族」等と切り分けてみても、結構「作った人の考えがにじみ出ていて」面白いな…と思ったりするわけです。文字配置を考える際に多くの配列で引き合いに出される「M式」による類似性も見られるようですし。
 まあ、キー配列に関しては、いくらなんでも数が多すぎる気はしますが、それぞれに要求するものが異なるのですから、この点はしょうがないのかも。