指でしゃべるということの喜び、何かを伝えるということの必要性、未来の君と私が目指すべき方向性。

(参考:[キーボード]タイプライターが彼女に自由を与えた)
(参考:入力革命同士をオルぐってみるテスト)
(参考:02/02/25 公式レビューへのコメントをしてきたのさ。)


 「未来の幸せを掴むために、苦労をしてでも歩んでいこう。もちろん、先賢の知恵は忘れることなく。」──相沢かえで。


 ……って、ほんとにこんな結論でまとめていいのかどうかはわかりませんが^^;、最近心温まる動画を拝見して「うまいコメントが思いつかなかった」ので、ひとまずいつもどおりの記事にしてみました。


 #ちなみに、「未来の君と」というところは、実は「なんとなく浮かんだ言葉」であって、意味がなかったりします……って、そんなことでいいのだろうか^^;。


 以前の用途における「入力法」とは、もっぱら「清書」的な用途が主だったと感じています。


 そして、今後の用途における「入力法」とは、たとえば【無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法】やRayさんの記事に代表されるような「思考プロセッサ」的な用途が、本来的には主たるものになるのかな……と。
 Blogなどの普及に伴い、今後はさらに「思考・記述・推敲・書き直し」などが必要になるはずです。
 清書時代には考えられなかったような「多量の打鍵、多量のトルツメ」に対する需要がある一方で、日本語入力法はこの四半世紀もの間、ただ単純に「ユニークな(同じ)物を使うことこそ善」だと捉えられてきた節があったのではないかな……と。
 こういう膠着状況から脱する方法が何かあるのだろうかと考え続けては答えが出ない状況が続いているのですが、【無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法】や【02/02/25 公式レビューへのコメントをしてきたのさ。】に掲げられているような「選択できるということを知る」ことや「選択できる環境を構築・維持する」ことの重要性は、今後必ず重要になると感じています。


 その一方で、「入力法」が「唯一自身を表現する手段」となっている方もいらっしゃいます。
 tastieraさんが取り上げていらした、drooooopyさんによる打鍵動画の話【[キーボード]タイプライターが彼女に自由を与えた】経由で動画を拝見していると、drooooopyさんがそれまでに「表現できずに苦しんでいらしたかもしれない」という印象を、とても強く感じました。
 この表現方法に気づいた方も、本人も、そして周囲の方も、「始めて明確な意思の疎通が図れた日」のことは、きっと永遠に忘れられないはずです。
 こうして「鍵盤ひとつで助かる方がいた」ということは、とても興味深く、かつ力強いものがありますね……。


 そして、私がここから連想してしまうのは……やはり「障害者対応入力デバイス」の話になってしまいます。
 たまにその手の話を書きつつ、「私が後天的にそういう事態に陥ってしまった場合のために」と考えてみたこともありました。

 片手がダメになってしまった場合にはどうしようか……という問いについては、すでに別件経由で(今も日常的に使いまくっている)

の解決策を得ることができたというのは、私にとってとても幸せな出来事だったと感じています。


 たとえ障害を負うことがあっても、残る機能と技術を使って「可能な限り表現できるチャネルを維持していく」ことは、とても重要なのかもしれないですね。
 そして、それは「今障害を負っているかどうかに関わらず」全く同じことが言えるのかもしれません。


 「思うように入力速度が出ない」とか「思うように快適な入力ができない」とか「指が痛んでたまらない」とか……そういった現象に出会ったときに、

  • 高速に入力できるように、まずはただひたすらに訓練する。
  • 快適に入力できるように、まずはハードウェアを更新する。
  • 指が痛むと大変だから、まずは休み休み記述する。

という解決策が、本当に正しいのか……と言うことについて、もっと目を向けて考える必要があるのかもしれません。
 将来的に、より多くの方が

  • 高速に入力できるように、まずはそれに対応できる入力法を選択する。
  • 快適に入力できるように、まずはそれに対応できる入力法を選択する。
  • 指が痛むと大変だから、まずはそれに対応できる入力法を選択する。

……と、入力法に関する様々な不満や要求をフォローすることができることを知っていただけるようになって欲しいですね。
 基本的に「入力法」は「手順のカタマリ」なので、手順が改善されれば自然と「成果は良い方向に働く」はずです。
 その成果が「時の運や時代に左右される」のは仕方がないわけですが、それらに左右されるのは「成果」だけであって、決して「手順」は私たちを裏切ったりしません。


 いかなる人も分け隔てなく、その人が持つ能力を十分に発揮しつつ「自身にとって最大限に楽で速く快適な方法を選び、その結果として自らの言葉で表現を行える」ような時代が来ることを、私はこれからも願い続けて行きたいと思います。