キー配列の「宣伝」は誰のためか……

 ちょっと考えてみたけど、およそ「宣伝」といえるもののうちある程度は「自分のため」に書いているような気がする。特にその配列を設計・製作・調整・習得している最中については。


 練習中に感じたことについてあれこれと記して「あれはイイ、これはダメ……」とか書いているといい部分を割りと強調して書きがちになるけど、それって結局は「自分自身で納得して練習を続けるために」書いているのかもしれない。
 練習中はそういう言葉がぽんぽん出てくるのだけれど、いざ慣れきってしまうと「自分で発見することがなかなかできなくなってくる」わけで。
 こういう過程で創生される「練習日記」は読んでいると納得できる部分も多いし、それをみていれば「自分に合うかどうかを読者自身が判断できる可能性が高まる」ので、少なくとも害になる恐れはないと思う。
 アヤシゲな通販広告にある「ビフォー&アフター」のような脚色があるか、それともきちんと脚色なしに物事を書いているかどうかということをかぎ分ける能力は「本来誰しもが備えている」から、言いも悪いもひっくるめて脚色なしに書いているドキュメントが一番いいと思う。


 そう考えると、「宣伝は習熟期間中のみに書け」ということになるのかもしれない。
 習熟期間中に書くそれは、必ず苦労した点などももれなく書いてあるから、いいところだけを掲示した「宣伝」とは異なって、現実に即した「コスト・ベネフィット比」を表現できているはずだから。


 慣れきってしまった後に書くことは、どうしても「ただ単純に【自分が既に慣れているものを持ち上げているだけ】じゃねーか!それなら俺にだって【既に慣れているものがある】のだから、とやかく言われる筋合いなんてねーよ!」という話になりかねないわけで……それが配列系にある「論争」として捕らえられてしまうとすれば、これはどうにも避けようがないし、話が平行線に終わってみたり、実りのないやり取りになってしまうことも避けられないわけで。


 今書いたドキュメントが「何年後に読まれるか解らない」というのがネットの特性だから、書いたその場で確からしいレスポンスがなくても心配する必要はないと思う。
 肝心なことは、「静かなる突っ込み(サイレントクレーム)」を自力で防ぐ(書いたことについて何度も自問自答すること)なのかもしれない。