(TitleOnly)「信じる」か、それとも「感じる」「理解する」か……それが問題、なのかも。

 偽薬効果が途中で切れてしまうのは「信じてみたけど裏切られた」から、と。
 そして、これは偽薬ではない薬でも、同じようにおきてしまう。
 「信じる」というのは、「誰かが言っていたから」と前置きするとしっくり来る。
 「誰かが言っていたから信じる」し、「誰かが言っていたけど裏切られた」となる……「私が知っている私自身」だけでは完結せずに、「私が知っている外界の誰か(を私自身の心の中に投影した虚像)」を巻き込んで始めて成立するので、

  • 「私が知っている外界の誰か(を私自身の心の中に投影した虚像)」が信じられなくなると、対象事象も信じられなくなる。
  • 対象事象に裏切られたと感じると、「私が知っている外界の誰か(を私自身の心の中に投影した虚像)」も信じられなくなる。

ということになってしまう。


 一方で、「感じる」「理解する」というのは、きわめて単純に「私が知っている私自身」だけで完結するし、仮に巻き込むとしても「私が知らない私自身(無意識の私)」まで。
 自力で検証できて、自力で有効性を確認できて……となると、その結果は「信じる」ではなくて「感じる」「理解する」になる。
 ただし、ここで「感じた」「理解した」ことは、あくまでも「私にとって」の話であって、「外界の誰か」にとっても違うことなく「感じる」「理解する」ことができるとは限らない、という点には注意する必要がある(それをせずに「信じろ!」といってしまうと、何もかもが台無しになってしまう)。
 そういうときには、「信じてもらう」ことを目標とするのではなくて、「感じてもらう」「理解してもらう」ことを目標にしないといけない。


人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

 ここでちょうど「超能力」に関する話が出ている。
 超能力を信じる人は、それが実在することを証明するために実験を行い、ひとまずデータがそろって発表する。
 でも、その後に超能力を信じない人によって徹底的な検証が行われて、結果としてデータに問題があることを突き止める。
 ……ここでの不思議なところは、「それを信じたいと願う人は、何か一つ信じられるポジティブデータがあると信じてしまう」し、「それを信じたくないと願う人は、信じたくないと思う理由をいくつも並べて検証して、そこからネガティブデータを見つけてしまう」というところ。
 人は誰でも「自分が持つ常識に近いものはほぼ無批判に受け入れて、そうではないものについてはとことん突き詰めて考える」というところがある……のかもしれないけれど、本来は【自分がそれを信じていようと信じていまいと、まったく関係無しに、同じようにデータに対して接するべき】はず。
 どこの実験室でも、提示された条件さえ満たせばキチンと現象を再現できる……という、当たり前のことができていないと、このあたりのややこしさは消えないのかもしれない。


 自分から見た常識に対して批判的になり、かつ自分から見た非常識に対して好意的になる……というのはとても難しいのだけれど、そうやって「すべての事象について、安易に批判したり妄信したりしない」という姿勢でい続けることは、結果として「より整合性があり、より多くの人にとって理解でき、より常識として使える可能性が高いもの」を生み出せるのかもしれない。


 ……もっとも、実際には難しいよなぁ、と思う。
 【自己に対して批判的であれ。そして他者を信じよ。】といわれたところで、のーみその思考プロセスは「成長過程で決まりきった神経反射へと収束してしまう」ことによって成立しているから、結局は

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

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にもあるように「繰り返し現れる思考パターン」によって埋め尽くされているし、自己に対して批判的であるための資質である「内省」というのは「誰もが同じように上位プロセスとして保持している、というわけではない」わけで。


 自分自身で「(信じていない部分に関しての)内省」ができるかどうかに依存しているようではどうにもならない……とすると、結局は行動に頼っていくしかないのかも。
 とはいえ、行動側で誘導する手法は

短期間で組織が変わる 行動科学マネジメント

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でも指摘されているとおり、「悪用」される(orできてしまう)場合もあるし……うーむ。
 このあたり、答えは簡単には出そうにないので、とりあえず今日は放置しよう。