日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)読書中感想。

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

 pp.1-73まで……と、途中までしか読んでいないのだけれど。


 三上/金谷両氏の目指す「日本語の主語不要論」普及へのもくろみは、現状のままでは決して成功しない。
 なぜなら、日本に住む日本語ネイティブの話者は「(両氏が指摘しているように)学校教育のそれがどんなに間違っていようとも関係なく、普段まったく気にすることなく使っている日本語の、学校教育における誤謬など気にも留めていない」のだから……それはネイティブにとって実害がないのだから、当然の話ですらある。


 三上/金谷両氏の話が、日本に住む日本語ネイティブの話者にとって役立つためには何が良いか……と考えると、答えはひとつしかないような気がする。
 それは、彼ら(あるいは彼らと同根の考えを持つ筆者)による「わけがわかる英語」の執筆だろう。


 日本の英語教育に革新をもたらすことなしに、日本の国語教育に新風は吹かない。
 それは、金谷氏が「カナダで日本語を教える難しさを語るのと同じように」、日本国内の英語教師もまた「日本で英語を教える難しさを語るのと同じように」感じているはずなのだから。
 「日本の国語教育にひずみがあることが原因で、英語教育にまで問題が出ている」という仮説を証明できれば、彼らの主張は(少なくとも民間人にとっては)スッキリと通る話となるはずである。


 日本人の英語教師向けに「解りやすく英語を教える方法」を伝えるためには、そもそも「解りやすく日本語の姿を伝える」ことと何一つ変わることはないはず。
 日本語と英語の「無用な融合と無用な垣根」を取り払うことを、彼らならばできる……と、私はそう信じてみたい。
 彼らの指摘が「延々と間違ってきたことの変革」をもくろんでいるもののではなく、「わずか1世紀の間だけ間違っていたことの訂正」を試みているのならば、なおさらにそう思う。


 その答えが以下に示されているのかどうかは、本書を読了してからのお楽しみ……ということなのかも。

英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ

英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ