日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語 (ちくま新書)を読了。

日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語 (ちくま新書)

日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語 (ちくま新書)

 この10年で、学校教育における「ローマ字」の使い方は、かつての「外国の文字を覚える」「50音図の形態を知るため」のほかに、誰かが勝手に理由付けた「パソコンでの日本語入力(ローマ字入力)をするため」の3つ目が増えた……ような気がするのだけれど、この本を読了した感想としては「それらはすべて、ローマ字に割り当てるべき役目として間違っている」様にすら思えてしまう。
 増田さんがこの点に気づいていたのか、ローマ字入力を50音図側に振って「かな入力風に変換して」教えることにした……というのは、結局正しい判断だったのかもしれない。
 それと、IMEが使う辞書のなかでは、すでに昔からこの方法を利用しているものがあるようで……「内部的な処理をする」という条件がついている場合には、日本語をローマ字に分解して処理するほうが、いろいろと都合がよさそうだな、という気がします。


 この絡みで困るのは、日本語「入力」なんですよね……私の周りで観察してきた限りでは、子音だけを打って「次の母音を何にするか」をじっくり考えているような方は見たことがない(次の母音まで打ってから取り消すか、あるいはそもそも子音を打たずに考えて「答えが出てから」打つか、のどちらか)ので、結局日本語を入力&発声するときの思考というのは【音声とかなの両方に束縛されている】のかも……と。
 脳内音声をそのままコピー打鍵する場合、それこそ「拗音まで含めてワンアクションで打てる方法」とか、あるいは「拗音まで含めて交互打鍵で打てる方法」というのが、(瞬間的に高いスループットを要求される部分をうまくかわせるという意味では)ストレスの少ない入力法、ということになるのかも。
 もっとも、そこだけに注視して「普段入力する確率が高い連なりが高いスループットで打てなければまずい」という部分が犠牲になると目も当てられない事態になるので、このバランスの取り方は結局難しいまま……ということになるのだけれど。


 いずれにせよ、「(日本国外の)日本語教師から見た視点」が「(日本国内の)国語」にとって、ある程度重要な鍵を握っている……というのは、読んでいて興味深いと感じました。