鍵盤配列は「(相対回数ではなく絶対回数で見たときの)繰り返し頻度の高低」に注視して設計するべき、という仮説。
(同日:[あしゅかはいれちゅ][かえであすか配列]「あしゅかはいれちゅ」の名称を「かえであすか配列」に変えます。)
(過去:[あしゅかはいれちゅ]改0訂0案9版を正式に【あしゅかはいれちゅ改0訂0版】とすることに。)
トヨタ式大野方式の書籍を見ていて、どうにも引っかかっていたことがありました。それは、
【3日で一人前になるよう教育訓練すること】
というはなし*1。
3日で……というと、「手順がきっちり決まっている」「そう簡単には改善(≒省力化)できる余地がない」「十分短い手順になっている」「十分な回数だけ繰り返すことができる」必要はありそうです。
……で、これって鍵盤配列においても同じ考え方ができる【部分がある】のかも、と。
ただし、「手順がきっちり決まっている」「そう簡単には改善(≒省力化)できる余地がない」「十分短い手順になっている」「十分な回数だけ繰り返すことができる」の条件を満たす部分だけが、
【繰り返しによって習熟するべき】
であって、そうではない低頻度部分*2については
【何らかのガイドによって補完されるべき】
なのかも……と思い始めています。
今のところ私は、仕事と配列ネタでは「根本的なところでは何一つ変わっていない」という捕らえ方をしています。
で、仕事→配列→仕事→配列→仕事→配列→仕事→配列→仕事→配列……と延々とフィードバックしていくと、私のように記述する文章量がそう多くはない*3人間にとって、あしゅかはいれちゅかえであすか配列は「(最適解からは遠いとしても)ある種の解としては成立しうる」のではないかと考えています。
Rayさんは記事で「(あしゅかはいれちゅかえであすか配列と)飛鳥を評価打鍵で比較……」という話を書いていらっしゃるわけですが、私は(あしゅかはいれちゅかえであすか配列については)そういう比較検討の土台に立てる状況ではないと思っています。
配列というのは、結局のところ、
【配列設計者の思想を映す鏡】
なのかもしれません。
私はどうしても、奥深い日本語そのものに対して真っ向勝負を挑めるほどの知識はありませんから、責めるべきポイントはどうしても「作業改善」側に偏りがちになってしまいます。
配列を組むたびに思うのですが、私が手を加えると、結局のところは「かんがえなしです」風味になってしまうのかもしれないですね……。
いずれにせよ、(当初予定からは外れてしまいますが)もうすこし(配列はいじりようがないので)使い続けてみて、なにかよいヒントがあるのかどうかを探してみたいと思います。
ちなみに。
「かえであすか配列」には、「生産革新」「事務革新」にとって必要と思われるエッセンスは作りこんでみた「つもり」でいます。
「使ってみればわかる!」なんて大それたことを言うつもりは毛頭なくて、今感じていることをそのまま表現してみただけの話ではありますが。
もっとも、その中に「あえて打ちやすさを外している(→より効率的なものがあることを暗示させる)」仕掛けを突っ込むべきかどうかで悩んだりはした……のですが、自動的に入ってしまったので、それはもうそのままにすることに。
#それ(効率のよさ)を望むならば「飛鳥カナ配列」に移行してもらえばいいだけの話であって、「かえであすか配列」にとっては大きな問題ではありませんし。