Re:yfiさんへのレス

(言及:yfiさんへのレス)
(関連:現場発のボトムアップ方式【21世紀版の作業改善】をやるなら、手始めに「飛鳥カナ配列」を試してみよう!と言ってみるテスト。)


 まずはじめに。
 私は(少なくとも自分の意識の中では)ほかの方の「思想」に関してあれこれ注文をつけることは本意ではない……と、その点だけは表明させていただきたく。
 この原則は今も昔も変わっておりませんが、あいも変わらず私の言及方法がおかしいために、不愉快な思いをさせてしまう結果となった点については、とても申し訳なく思います。
 個人的には「とにかく心配で」提案させていただいたわけですが、結果としては「明らかに当方の配慮不足」でした……本来ならば「指摘以前に無視」されても当然ともいえる、当方の不躾な行為に対し、あえてきちんと指摘していただいた点に感謝します。


 それと、飛鳥カナ配列まとめWikiに関してリンクいただきありがとうございます!
 ……で、私はあそこの主記述者ではありませんので、【yfiさんが中心に書かれている、】の部分は不要(というよりも、事実ではない)と思われます。
 どなたが記述しているのか&何人の方が記述に参加されているのかは把握できないので不明ですが、着々とまとめWikiのコンテンツが構築されていく様を見ていると、そのスピード・内容の両面で、色々と驚かされることが多いです。


 ……では、以下はいただいたお題について。

A.「どんな入力法を使っても、同一人物の上限の速度は同じ」というyfiさんの自説には、何か根拠になるデータがあるんですか?

 データは……ありません。
 これだけで回答が済むようでしたら、以下の言及は不要ということになりそうです。

 この言及の根底には、次の2点があります。

  • (Rayさんがご指摘のとおり)「そういう言い方は旧来の入力法のユーザーの気分を害する」という視点
  • (新しい練習法を覚えようとする方にとって)「今まで使っていた入力方法と同等の入力速度になることが保障されている」という概要を理解してもらいたいという視点


 入力速度については「手順の選択次第で変化するという認識が事務分野全般(とりわけ文字入力分野)の一般人にとっては未だに一般的ではない」のですが、この前提を崩すことなく、事前準備もなしに「○○入力法は速い」という論法を展開すると、NICOLAがかつて宣伝に失敗したときの二の舞になります。
 NICOLA日本能率協会のデータを引っさげて「NICOLAは速い」という論法を展開しましたが、現状でそれが「普及のためのキーポイントにはならなかった」ことはご存知でしょうし、すでにぎっちょんさんのように「楽であること」にフォーカスを移している方もいらっしゃるわけで。


 それとこの点に絡んで、過去の記事でいくつか言及しています。

 たとえ「入力速度が速くなる」といっても、入力が楽にならなければ「仕事以外では使う気になれない」といわれてしまう恐れがあります。
 個人的には「無理・無駄・ムラが減ることで楽になり、余分な動きを要求されず、真の意味での働きのみで日本語入力をできるようになれば、その入力法は自動的に選択されていくはず」だと理解しています。
 その意味では、「速さ」よりも「楽さ」についての言及を行うほうが有用かと。


 そして、継続的改善行為そのものによって得られる「楽さ」についての言及を無視して、最終的な成果である「速さ」についてのみ言及することがあれば、これはとても危険な行為となります。
 「速さ」については、とても厄介なことに「真の意味での能率改善(配列側を含めた全体的な改善)」のみではなく「見かけ上の能率改善(訓練のみで行う改善)」でも改善可能であるという、とても厄介な性質があります。
 「楽になれば余力が生まれ、結果として速くする余地が出てくる」という方向性での言及は可能かもしれませんが、この点については「継続的改善」の本質を理解しなければうまく言及できないのかも知れず、今のところ私にはそれについて「きちんと言葉として表現する」術は持ち合わせておりません。
 

B.yfiさん自身、飛鳥で打っている理由の一つに「速い」ことがあるのではないのですか?毎日、仕事でもないのにあの長さの文章を以前の入力法で書けたと思いますか?

 たとえ早く打てる入力法を用いたとしても、「楽であること」が満たされなければ、私は長文を書く気にはなれません。
 逆に、「楽であること」が満たされるのならば、たとえ早く打てない入力法を用いたとしても、私は長文を書くことができるでしょう。
 私にとって「楽であること」は最優先であり、その副次的な効果として生まれる「速いこと」はあくまでも付属品でしかありません。
 「速いからこそ楽になる」ことなど原理的にありえず、「楽だからこそ速くやっても支障ががないし、速くする伸びしろが生まれる」のかもしれません。
 順序を逆にしては説明が成り立たない可能性がある以上、私は飛鳥の特長について「速いこと」を理由にすることができないのです。


 ある配列を使っていれば、「とことん訓練すれば速くはなる」のですが、「とことん訓練すれば楽になる」ことなどありえません……。
 ならば、「速くする」ために配列を選択する意味は全くなく、「楽にする」ために配列は設計され、そして選択されるべきです。


 私がかな系を「推してみる価値があるのではないか」と思った理由はいくつかありますが、最終的には以下の点に集約されるように思います。

  • 設計自由度が十分に高く、設計技術者の腕次第で「楽さ」を得ることができ、結果として「無理なく必要十分な速さを得る」ことができる可能性がある。
  • 実用段階に至るまでに必要な習得動作数が100手順を切っており、短めの期間でも「習熟効果」を得やすい。

 仮にかな系の配列が「(最終的な成果物でしかない)速さのみを追求する」方法で設計されれば、その入力法は「速いこと」を満たすことはできても「楽であること」を満たすことができるとは限りません。
 そういう方法では、単純に「打鍵数が少ないから楽」であるということはできるでしょうが、それは配列の工夫によって得られたことではなくて「かな系というフレームワーク上で設計したからこそ」得られただけであり、これだけで説明が済んでしまうのであれば「50音配列でも飛鳥でも全部同じ」になってしまう恐れがあります。
 飛鳥がそのレイヤで語られても良いとお考えでしたら、私はそれを否定する権限はありませんので「ご自由にどうぞ……」というしかなくなってしまうのですが、飛鳥にそういう理論を適用してしまうのは「とてももったいないこと」だと感じています。


 「見掛けの能率向上」と「真の能率向上」を分別するのは容易ではなく、そのためか

トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして

トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして

大野耐一の現場経営

大野耐一の現場経営

のような書籍が未だに確固たる支持を得ていたりします。
 飛鳥の魅力を説明するためにどういう方法が適切なのかは、未だに見えていない部分があると思います……。
 しかし、少なくとも「速いこと」をその説明の軸とすることは、これらの書籍を読む限りは(そして、工業分野における能率改善がらみのテーマを読み漁った限りでは)「全く適切ではない」と感じています。


 ここまでのまとめ?として、【トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして】から飛鳥の解析に応用できそうなところを引いてみようと思います。

 トヨタ生産方式の特徴として「ロットを小さく、段取り替えをすみやかに」ということを説明したが、じつはこの考え方の基本には、生産の流れをつくることによって、どっしりと根を下した「より速く、よりたくさん」の既成概念を変革していく意図がある。
 じつを申せば、トヨタ自工内部においても、プレス部門、樹脂成型部門、鋳造部門、鍛造部門などは、組み立てラインや機械加工の流れのように、全体の生産の流れの中にしっかりと定着させることはなかなかむずかしい。
 たとえば、大型プレスの「段取り替え」作業も訓練によって三分とか五分とか、他社に比べると驚くべき時間に短縮されているが、今後、流れを完成させていくにつれて、そのスピードを「より遅く」しても十分に間に合う状態をつくり出すことができる。
 トヨタ生産方式は、量とスピードを追求するあまり、いたずらにロスを生み出してしまうマス・プロダクションとマス・セールスへの、いわばアンチ・テーゼである。
(from トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして pp.200-201 )

 飛鳥の入力法改善というものは、「全体的に見れば入力効率が良くなる」という設計法(この方針を採るのならば計算配列のほうが圧倒的に有利)ではなく「細かな改善を組み合わせることで、入力しづらい部分を極力なくしていく」という設計法(この方針を採るのならば人力設計配列のほうが圧倒的に有利)を取ったという認識をしています。
 もしこれが真であるならば、飛鳥について必要な説明というものは、つまりは「速さ」ではなく「楽さ」にフォーカスされた説明であるべきではないでしょうか。


 速さを追い求める配列設計手法については、1980年代前後に徹底的な考察が成されてきました……が、近年の手製配列増加は「それだけでは満足できない」ことを表しているように思えてなりません。
 近年の配列設計では「指が痛いから文字を入れ替える」とかいう言及が多くなりつつあり、大昔風のような「軟弱なことを言うな!それは慣れて何とかするべきだ」というスタイルの言及は(少なくとも配列界隈においては)少なくなりつつある様に思います。
 (もちろん、一般的には未だに「JISX4063準拠のローマ字綴り入力」が幅を利かせているわけですが、そこは「普及」の話であって「設計」とは別、ということで。)


 飛鳥が「飛鳥らしさ」を証明するためには、少なくとも「速さ」に関する言及は必要ないと思います。
 あるいは、どうしてもそう言及する必要があるというのであれば、「楽に操作できるように設計したから、速さを求めるための余地がある」という風に言及するにとどめるのが筋ではないかな、と。


 私は、成果でしかない「速さ」という言葉に振り回されて、「飛鳥」という入力規則がプロセスそのものとして持つ「楽さ」の部分に関する説明を「未来の利用者に読み取ってもらえない可能性があること」をとても恐れています。
 「速さ=善」という認識は、あと半世紀もすれば(事務分野をも含めて)崩れてしまう可能性を秘めています。
 生産革新なり業務革新といったキーワードがもてはやされているうちには、「速さ=善」から「楽さ=善」への革新というのは起こらないかもしれません……が、それが「当然」となる世の中になると、その世代かそれ以降に生まれる人々は、そういう世界を「当然のもの」として受け取り育つことになるはずです。


 「速さ=善」は純粋計算配列でも達成できますが、「楽さ=善」は純粋計算配列には達成できない領域です。
 飛鳥は「手作業で配列交換を行い、その過程で数値データと指の言い分とのマッチングを取ることに成功した」のではないでしょうか?
 もしそうであるならば、最も重要なものから順にその特徴を並べて提示することが、飛鳥にとっては最も自然な「特徴の説明」になるのではないかと思います。
 「楽である」とただ言うだけでは「速い」ということを証明しようとするのと同様の無理が出てきがちですが、「どういう原理で楽になるのかを、数値データと感触の両面から考察して説明してある」のであれば、これは「特徴の説明」として有用であると考えます。


 人間は「計算したとおりに動けるわけではない」ところが、ことを厄介にする一番の要因なのかもしれません。
 「速さ」を軸にアプローチすると、その説明は「実験方法や実験対象の運動能力などによって大きく揺らいでしまう」可能性があります……というか、シャープ論文と日本能率協会調査では「かな入力とローマ字入力の習熟時間・入力時間」さえもひっくり返っている状況で、測定条件が統一できない以上は「測定結果としての速さ」を基礎とするのは危険です。
 測定という行為によって評価が左右されないためには、その「結果」ではなく「プロセスや手順」に関する表明がどうしても必要です。
 いつからか「成果主義」が叫ばれるようになって久しいわけですが、そんな世の中であっても「運に左右される成果」ではなく、「工夫の成果がはっきり出るプロセス」に注視した言及を行うほうが、測定方法や主観に左右されにくいはずです。
 そして、「プロセス重視」で配列をつくれば、そこで得られる結果はまず「楽であること」であって、「速いこと」は副産物である……という結論にたどり着く気がしています。
 これは単なる理想論かもしれませんし、言及するにも労力を要することは確かです。しかし、「プロセス重視」の説明はそう簡単に揺らぐものではありませんし、せっかく飛鳥が「プロセス重視」で設計されているはずなのですから、労力をかけてでもそこを重視する価値はあると、私はそう思います。


 うーん……相変わらず「答えになってない」ですよね……orz

(2007年4月2日6:15:27追記)一部保留。

 以前メモとして書いた【「飛鳥カナ配列」は、【効率よく打てるから、結果的には快適に打てる】ではなく【快適に打てるから、結果的には効率よく打てる】にフォーカスして設計された……のかもしれない。】との整合性が取れていないことに気づいたので、「計算配列」と「手捏ね配列」の差に関して書いた部分については、一旦保留とさせてください。