常識という名の主観。

(参考: [ふと考えたこと]常識ITmedia:「はてな」という変な会社)

 常識というものは、人それぞれに持っている「主観」の集合体です。
 常識は「客観」ではありません。その集合体でのみ生かされる「主観」です。


 多くの人にとっての常識を受け容れると、それは「きまりごとのない世界」になってしまいます。
 何を許容し、何を拒絶するべきなのかという「基本的なルール」が無いのです。


 このような状況に放置されて、全ての物事について「考えて」行動するということは、なかなか人間にはできないものだと感じています。
 ゆえに人は「常識・法律・規則・習慣・事実上の標準」を望みます。
 少しでも「余計なことを考えずに(≠楽に)」生きようとするとなれば、これを欲するのは当然なのかもしれません。


 そうやって現状追認で出来上がった世界を前にして、それをあえて「変える」にはどうするべきか…
 誰もが経験するとおり、それは「変えろ!」と命令しても、「変えてください!」と説得しても、結局ココロの中は何も変わりません。
 物事を変えるならば、一番手っ取り早いことは(もっとも遠回りだと思われがちな)「変えた方が有利だと気づかれるように、あえて何も言わずに、ただひたすらにヒントやツール(有形・無形を問わず)を提示し続けること」なのかもしれません。


 人の考えには、人それぞれのフィルタが掛かっています。
 そのフィルタを、無理矢理に剥がそうとしてはいけない。
 やるべきは、そのフィルタをすんなり通る物を作ること。


 変えようとした人の努力は、きっとほとんどの人には評価されません。
 変えようとした人の成果は、いつか誰かの「常識」となるだけです。


 変えようとする目的が「評価や名声を得ること」にあるのか、「常識として認知されること」にあるのか…
 そのどちらなのかを選ぶことで、自らが進む先は、自動的に決まるのかもしれません。


 15年前の常識は、今の非常識かもしれない。
 今の常識は、15年後の非常識かもしれない。
 そして…その常識は、常に主観でしかない。


 #たまに、こういう「焦点の合っていないもの」を書いてみたい衝動に駆られます^^;
 #誰かに言及したい…というのではなく、自分の考えを整理するために。